生物の物理的理解に対するこだわり
元日本生物物理学会会長
美宅 成樹
研究者には、それぞれ独自のこだわりというか、面白いと思うポイントとなる疑問があると思います。私にも研究者キャリアを通してのこだわりがあります。ここではそのこだわりの疑問がどのように形成され、どのように解答を追求してきたかについてのお話をして、若い人たちの参考にしていただければと思います。
私が物理を志したのは、大学に入ってからでした。そういう意味では、物理オリンピックを目指す人たちよりもはるかに遅かったと思います。そして、生物物理を意識するようになったのも大学院に進学する間際で、研究室の選択に悩んだ上、「夢がありそうだ」という漠然とした気持ちだけで決めたのでした。それから50年間、「生物の物理的な理解」にこだわり続けることになりましたが、それはある疑問にこだわり続けたからです。
大学院入学直後の頃、学科での雑談会のような機会に、有馬朗人先生だったか、久保亮五先生だったか記憶は定かではないのですが、教授の1人が私にぽつりと質問されたのでした。「生物は次第に秩序の高い方向へ自然と進化しているようだけど、どうしてだろうか?熱力学第2法則に反しているのではないだろうか?」当時生物物理の教授だった和田昭允先生もそのような質問をしばしば受けていたようで、別に私だけにこの質問していたわけではなかったようです。しかし、「このような疑問もあるのか!」と私は相当のショックを受けました。その後、和田先生は「生物ゲノムを妥当な時間で全部解読してしまうことは可能なはずだ!」とゲノム解析ロボットを提唱し、ゲノム解析の流れを作ったという意味で先駆的だったと思います。
もちろん若輩の私には、当時このような疑問に全く答えようもありませんでした。しかし、この疑問は私の心に深く刻み込まれ、その後、私の研究者人生を通しての疑問になったのでした。生物を理解するということは、部品を理解することも大事なのですが、全体としての生物体を俯瞰的に理解するということです。その解答は現在でも得られていませんが、私は研究者人生を通して、少しでもこの疑問に答えようとしてきたように思います。
私が研究に携わった期間はほとんど50年間になりますが、それは2つの段階に分けることができます。最初の30年は、『生体高分子(タンパク質)の立体構造は粗視化によってどこまで予測できるか?』という疑問でまとめることができます。この疑問は当時のタンパク質科学の常識に反していました。タンパク質は詳細に解析しなければいけないというのが常識でしたから、どうやって粗視化できるかというのは、常識と逆だったのです。しかし、生物という複雑な物体を現実的なスピードで形成するには、個々のタンパク質は非常に速く形成していなければなりません。ところが、1個のタンパク質を形成するのに、可能な構造をいちいち試していたら、期待されるようなスピードで速く折り畳むことは絶対にできません。そこで私が考えたことは、局所的なアミノ酸配列断片の平均的性質に基づいて、タンパク質が折り畳む方法はあるに違いないというものです。 およそ30年かかりましたが、アミノ酸配列の粗視化によって、膜タンパク質を中心としたタンパク質のフォールドを高精度に予測できるようになりました。その予測ソフトウェアシステムを記述した論文は、被引用数が1400を超えており、一応の評価を受けています。
その後の20年間近くは、『全ゲノムから作られる全タンパク質のシステムは、どのようにして調和をとっているのだろうか?』という問題について考えてきました。実は生物ゲノムを形成する駆動力は、大量のランダムな変異の集積に過ぎないのです。少し抽象的に述べると、『ランダム過程の集積よって、非常に安定な状態はできるか?』という私がこだわってきた問題そのものになるのです。考えてみると、『大量のランダム運動をしている分子集団からなる物質は、平衡状態で非常に安定な状態を作っています』そして、それは熱力学で見事にまとめられています。物質ではエネルギー保存を基本としていますが、生物の場合エネルギー以外の何らかの保存則があり、その平衡状態で『生きているという分子集団の状態』が安定に存在できるのではないか?
そして、生物における保存則は、コドンの位置によるヌクレオチド組成からなる12次元の空間に全てのゲノム配列をプロットしてみれば、分かるというところまできています。この私の考え方に理解を示す人は今のところ余りいないのですが、その評価は歴史に任せたいと思います。ただ 私がここで述べたいのは、物理には疑問へのこだわりが必要だということです。50年をかけて解くに値するような大きな問題はまだまだあるのだろうと思います。多くの若い人たちが物理に愛情を持って取り組んでいただくことを期待しています。
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美宅成樹 プロフィール
出身地: 三重県津市
出身高校: 三重県立津高等学校
大学・大学院:東京大学物理学科、東京大学大学院理学研究科物理専攻博士課程
(大学卒は全員6月卒、大学院は先に就職して、単位取得退学です)
職歴: 東京大学工学部助手
東京農工大学工学部助教授、教授
名古屋大学工学部教授
豊田理化学研究所客員フェロー
現在は、自称サイエンスライター
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