物理オリンピックの経験と工学
2012年タイ大会
佐藤 遼太郎
私は現在、民間企業で音響等のメディア情報を扱う信号処理技術の研究開発を行っています。これまで本エッセイを執筆されてきたIPhO出場者の方々は比較的物理学の研究を継続されている例が多いのに対し、現在の私はかなり工学寄りの分野に属しています。ここでは現在の私の立場から見た物理学やIPhOの役割について感じていることを記そうと思います。
私が物理に興味を持ったのは中学生の頃で、特に身の回りの現象が少数の基本的な原理・数式を用いて予測・説明できるという点に惹かれた覚えがあります。私は物理チャレンジにもその興味のまま参加しましたが、この大会やIPhOで課される実験課題は、共通の実験テーマが与えられながらも実験方法やデータ解析は参加者に委ねられるという独特な形式のものでした。これらの課題で取り組んだ内容は当時の私の興味とマッチし大いに刺激になりましたが、今となって振り返ってみると私はこれらの課題によって物理学や科学全般の基本となる能力を身に付けられたのではないかと感じます。具体的には、物理量に対する感覚やデータや誤差の扱い方といった直接的な知識のほか、複雑な事象に関して本質的な要因を抽出・分割しよりシンプルな問題に落とし込む方法など、その後何度も活きる経験を高校生のうちに積めました。
私は、大学学部まで物理を学んだ後、大学院以降では情報系の専攻に移り、音声や音響技術の研究開発に取り組んでいます。この分野には物理が密接に関わり、またIPhOの経験を通して学んだ問題解決の方法論も有効であると常々感じています。例えば、私が取り組んでいる技術テーマの一つに、別々の位置に置かれた複数個のマイクで同時に収録した音響データに対して、信号処理を加えることで特定の方向から来た音のみを強調するというビームフォーミング技術があります。この処理によって、例えば、遠隔会議用のマイク装置で周囲の雑音を極力拾わずにユーザの音声のみを収録する、といったことが実現できます。このような音響技術の手法は、そもそも音の伝播という物理現象を相手にするため、物理学に基づく基礎方程式(上の例の場合は、空気中を伝わる音波の波動方程式)を出発点にしていることが多いです。これらの基礎技術をキャッチアップし、更なる性能向上を目指した研究開発を進めるためには、原理を正しく理解した上で現状の問題点を整理し、物理的にも妥当な解決策を提案することが重要になります。
また、ここ最近流行の機械学習・ディープラーニングの手法を用いた研究が音響分野でも盛んに行われていて、私もこれに取り組んでいますが、これらの研究も「ディープラーニングを使ってみれば何でもうまくいく」というものではなく、扱うデータの物理的な性質等も考慮した上で手法設計を行うことが不可欠です。これらの技術の研究開発で要求される能力は、今になって振り返ると物理チャレンジやIPhOを通して身に着けた物理の知識や汎用的な知見と地続きであるように感じられます。
物理チャレンジやIPhOで習得できる能力は、直接的・間接的に、工学などの他分野でも活きるものであるように思います。今後これらの大会に参加される方々がその経験を活かして様々な物事に挑戦し、物理学と他分野を横断するような成果を生むことがあれば、それは両分野の発展・活性化につながる一つの望ましい形ではないかと考えています。
【略歴】
出身地 | 宮城県 |
出身高校 | 秀光中等教育学校 |
大学 | 東京大学 理学部 物理学科 卒業 |
大学院 | 東京大学大学院 情報理工学系研究科 システム情報学専攻 修士課程修了 |
現職 | 日本電信電話株式会社 NTTメディアインテリジェンス研究所 |
開会式
閉会式